11.数学の思い出

 RNNというニューラルネットワークを利用した文章生成は、あまり興味深いものではなかった。だが、これは、荒野の遺跡で入手した研究資料「ディープラーニングと物語のモデル」の導入部に過ぎない。

 「次はこの手順を試して見るのですか?」

 ヘスペロスがキーボードを使ってコードを入力するのを、アリシアが肩越しに覗き込んで見ている。アリシアの時代にはコンピュータは存在しないので、ソースコードの意味を伝えるのは難しいかと思ったが、コンピュータに対する命令が記載された手順書だと説明すると、ある程度理解してくれたようだ。

 「この研究では、人間の脳の処理方法を単純化した、ニューラルネットワークというものが使われているようだ」

 この時代のニューラルネットワークは、今のAAIには使われていないが、出発点である事は間違いない。

 「その形状によって名前が付けられていて、前回動かしたのはRNNと呼ばれていたようだ」
 「アール、エヌ、エヌ、ですね」
 「そう。今度のコードもRNNを使うのは同じだが、重要なデータをより生かすような工夫がなされている。アテンションと呼ばれる手法らしい」
 「データに注目するのですか?」
 「そうだ。だが比較して取り出すというような複雑な処理ではない」

 ヘスペロスはなるべく優しい説明になるように、言葉を慎重に選んだ。

 「沢山あるデータの中で、処理すべきデータが残るように1に近い数を掛けるのだろう。逆に重要ではないデータは、0に近い数字を掛ければ、その影響を消すことができる」
 「コンピュータには、その処理が出来ないのですか?」

 アリシアはAAIを機械の神だと思っている。旧式とは言え、コンピュータを万能の機械だと思っているのだろう。

 「いや、可能だが、その処理を使ってしまうと学習の妨げになる。この段階の研究では、処理を少し変化させると、出力データも滑らかに変化する必要があったんだ。そうやって正しいデータ変換処理を見つける事を、学習と呼んでいたようだ」
 「複雑な処理を正しく変化させる方法は、発見されていないのですね」
 「そう。少なくてもこの時点ではね」

 要するに、微分可能な関数を組み合わせる必要があるという事だが、アリシアの時代には、まだ微分法は発見されていないだろう。説明しにくいので今度教えるとしよう。

 「アリシアは数学は好きか?昔、習ったりしただろうか」
 「ええ、王女だった頃は王宮の専属教師が教えてくれました。でも数学と言いながら、何故か図形の話が多かった気がします」
 「ああ、幾何学だね。それも重要な数学の一分野だ」
 「そうなのですか?私は結構好きでしたが、あまり沢山は教えて貰えませんでした。王室の歴史とか、作法とかが多くて……正直に言うと、つまらなかったですね」

 アリシアは昔を思い出したのか、少し嫌そうな表情を浮かべて見せたが、それさえも上品で、魅力的に見えた。

 「オダリスクになってからは、性技を教わりましたが。これは良かったと思います。ご主人様に喜んで貰えますから」

 アリシアはそう言うと、しまったという顔で、口元を手で抑えた。

 「ごめんなさい。仕事中に変な事を言って……」
 「別にいい。ここは二人だけだからな」
 「でも……そうですね。では今夜は楽しみにしていてくださいませ」

 アリシアはやや芝居がかった調子で言うと、いたずらっぽい笑顔を浮かべた。ヘスペロスは苦笑したが、つい気になって時計を見てしまい、慌てて目を逸らした。アリシアは何も言わなかったが、妙に慈愛に満ちた表情を浮かべている。きっと気付いているのだろう。本心を誤魔化すのは難しいようだ。


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