イリスの実家に着いた時、辺りはすっかり暗くなっていた。
街灯が無いのでぼんやりとしか見えないが、ここは商店街のようで、道の両側に店が張り付くように並んでいる。
目の前のイリスの家は、煉瓦造りのこじんまりとした店で、住居も兼ねているそうだ。
「ヘスペロス様は天界からいらっしゃったのですか?神々は天と地を自由に移動できると聞いています」
「扉」に驚いたイリスは、不思議そうに周りを見回している。
アリシアもそうだが、意外と柔軟に超自然的な出来事を受け入れている。もう少し科学が進歩すれば別だろうが、今はまだ、この世界の人々は、妖精や神々と共に暮らしているのだろう。
「いや、そうではないが、別の世界からやって来たのは確かだ。その通路を使う事で、この世界でも自由に移動できる」
「そうですか、ではいずれ、元の世界にお帰りになるのですね」
イリスは少し複雑そうな表情を浮かべたが、それがどういう意味なのか、ヘスペロスには分からなかった。
「今後の事は検討中だが、妻はこの世界の出身なので、定期的に買い物に訪れるつもりだ」
「お優しいのですね。とても素敵です!」
イリスはそう言うと初めて笑顔を見せた。お世辞だろうが、少し打ち解けてくれたようで嬉しかった。
「それはともかく、直近の予定を話しておこう。私は仕事の関係で、来週までは来られない。胡椒と塩を渡しておくので、小分けにして販売してくれないか?売れるだろうか?」
ヘスペロスは家の在庫を詰め込んだ手提げ袋をイリスに渡した。胡椒と塩の、大きめの缶が2缶ずつ入っている。イリスは大事そうに受け取ると、胸に抱えた。
「この胡椒で私をお買いになったのですから、大丈夫だと思います。塩もレスリアの街では貴重品です」
「そうか。私の住んでいる場所では非常に安価なので、原価は気にせず、市場価格を下回る値段で販売して問題ない。取り分は店が3割、イリスが3割、残りは私が頂こう」
それを聞いたイリスは慌てた様子で被りを振った。
「わ、私は保護民なのでそんなに必要ありません。店の分だけで十分です」
「この書類には私有財産は持てると書いてあったから、貯金しておけばいい」
「ありがたいですが、保護して頂く身なので……」
「それなら、取り敢えず私が預かって管理しよう。まあ、どれくらい売れるか分からないから、今回は試験だが」
「はい、ヘスペロス様。ありがとうございます」
「それと、こっちは肌荒れの薬だ。食後に飲むといい」
イリスはアレルギー疾患で、かなり肌が荒れている。
処分価格とはいえ、それでも性奴隷扱いで売られるのだから、この世界の基準でもかなりの容姿なのだろう。ヘスペロスから見ても十分に美人だ。今は暗闇で見えないが、美しい茶色の髪と、琥珀色の瞳が印象に残っている。もし肌が綺麗になれば、街の男たちが放っておかないかもしれない。
「でもよろしいのですか?お薬は高価なのではありませんか?」
「確かに高価な薬もあるが、これはただの抗アレルギー剤なので問題ない」
「そ、そうですか。とにかく仰せに従います」
「その肌荒れは昔から?」
イリスは少し辛そうに目を伏せた。
やはり若い娘なのでかなり気にしているのだろう。
「いえ、元々肌が荒れやすかったのは確かですが、ロマナで酷くなった気がします」
イリスが売られていたロマナの街には何かアレルゲンがあるのかもしれない。あるいは慣れない環境下のストレスのせいで発症かもしれない。いずれにしても薬で良くなるだろう。
「それならこの街にいれば安心だ」
「そうですね。もう故郷の街を見ることはないと覚悟していましたので、とても嬉しいです。お薬も頂きましたし……色々と良くしてくださってありがとうございます」
イリスは胡椒と塩の袋を胸に抱えたまま、ペコリと頭を下げた。
「ここには、いつまでいられるのでしょうか?父と母に今後の予定を話しておきたいです」
「ご両親次第だが、好きなだけいればいい」
「そこまで甘える訳には参りません。父もそう言うと思います。それに、胡椒や塩の販売が必要でも、時々様子を見る程度で大丈夫かと思います」
甘えると言うのが、誰に対してなのかは分からないが、とにかくイリスには心外だったようだ。
ヘスペロスの漠然とした計画では、買い物が出来る程度の利益を得たら、イリスを両親に委ねるつもりだったが、これは責任を押し付けた事になるのだろうか。この世界の常識が分からないので、判断が難しい。
「私は何となくですが、ヘスペロス様のお屋敷で、メイドのような仕事をするのかと思っていました」
「それは考えてなかった」
「もしかして、肌が綺麗になったら、私は売られるのですか?」
イリスは少し不安そうな声でヘスペロスに問いかけた。
「いや、売るなんて考えてない。どちらかと言うと、いずれ保護民から解放しようと……」
「そうでしたか。ヘスペロス様は寛大なご主人様なのですね。ですが……」
イリスは済まなそうな表情を浮かべるとヘスペロスを見上げた。
「私は臣民の権利を失っているので、再取得するには時間がかかります。確か最低で5年間必要だったはず。そうしないと保護民の制度を悪用されてしまいますから」
確かにそうかもしれない。権利を制限される以上、義務も無くなるのだろう。悪用すれば、脱税等に利用できそうだ。
いずれにせよ、最低でも5年間はイリスの面倒を見る必要があるという事だ。
これはかなり大事になってしまった。アリシアにも相談していないし、話す時のことを考えると気が重い。
「分かった。とにかく今後の事は、後日相談しよう。悪いようにはしないから安心してくれ」
「ありがとうございます」
イリスは再び頭を下げた。
「ところで、来週までに服を2着用意できるだろうか?私のと妻の分だ。妻は君と同じサイズで良い」
「お洋服ですか?仕立てるなら本人がいないと受けて貰えないと思います。父と私の服でよろしければご用意できますが、いかがでしょうか」
「ああ、それでいい」
「かしこまりました」
ヘスペロスは少々後悔していたが、今更遅いのも分かっていた。
この世界での買い物は必要だったが、少し無計画過ぎたのかもしれない。