イリスを実家に戻した後、ヘスペロスはアリシアの家に向かった。
仕事が残っている時を除いて、夜はいつも一緒に過ごしている。特に今日はイリスの事で相談しなければならない。
玄関で裸のアリシアに出迎えられて、そのまま食堂へと向かう。
昼間は仕事のパートナーだが、夜のアリシアは後宮のオダリスクとして振舞う。
二人でドローンが運んできた工場製の夕食を並べると、アリシアはいつも通りに隣に座った。
「これは甘口のワインです。食前酒の代わりにどうぞ」
唇が重ねられ、工場で合成された白ワインを口移しで飲ませて貰う。
ワインの味はお世辞にも褒められたものではないが、微かに混じるアリシアの匂いは甘美で、極上の酒もこれには及ばない気がした。
「では、最初にパンをどうぞ」
アリシアに食べさせて貰いながら、いつも申し訳ないと思うのだが、結局流されてしまっていた。王の寵姫としての躾けの賜物か、寄り添うようにして世話されると、その魅力に抗うのは難しい。
だがいつまでも惚けている訳にはいかない。
ヘスペロスは頃合いを見て、イリスの事をアリシアに話した。
アリシアは静かにヘスペロスの話を聞いていたが、やがて、控えめに意見を口にした。いつものように優しい口調で、怒った様子はなかった。
「これは推測ですが……」
アリシアは話しながら、ほんの一瞬、窓の外に視線を移した。街灯に照らされた街路は、イリスの実家のある街とは対照的だ。平行世界とは言え、二つの世界の違いは大きい。
「この世界の女性と異なり、私の世界では女が自立するのは難しいのです。王族や貴族でも、女性が家を引き継ぐ例は少ないですが、それは平民でも同じはず。恐らく、その娘には兄か弟がいるのでしょう。そうでなければ、娘を手放したりしません。婿養子を貰わなければなりませんから」
「しかしイリスは自分を借金の形だと言っていたが……」
「私も詳しくはありませんが、受け取られた保護民登録証は恐らく正規の書類です。つまり家長である父上が同意したはずです。王国臣民は奴隷ではないので、担保にはできませんし、その娘を無理やり連れていったのなら、貸主は違法な金貸しで、その娘を国外に売却したでしょう」
思い浮かべると、娘達が売られていた屋敷には違法な雰囲気はなかった。ヘスペロスには分からなくても、視覚を共有するAAIの画像フィルターから逃れられる者は存在しない。膨大な量のデータが蓄えられているため、僅かな表情の変化でも嘘を検知できるのだ。危険ならAAIが警告したはずだ。
「つまり家族か店を守ろうとして、娘を売ったという事か」
金に困ってお前を売ると言われるよりは、借金の形の方が印象がいい。それに救われる家族にはイリスも含まれる。路頭に迷うよりは、誰かに囲われた方がましかもしれない。
「そうですね。ご両親は良い人に嫁ぐことを望んでいたでしょうが、状況が許さなくなった。それで次善の策を選んだのでしょう」
「そうだとすると、イリスにはもう居場所がないか」
「時々里帰りするだけなら歓迎されるでしょうが、出戻りみたいな状態は本人も辛いでしょうね」
「まあ、AHにとって、出戻りというのは古風な概念だが、なんとなく分かる。ではアリシアの侍女になって貰うか。新しい保護者を見つけてもいいが、また売られるのは嫌そうだったからね」
アリシアは元王女様で、王の後宮でも女官が世話をしていた。侍女がいる生活の方が自然かもしれない。イリスの方としても、保護民から王国臣民に戻れるのは最短で5年後だから、その間に結婚相手を探せばいい。
「あの……私は一人でも大丈夫です。それよりお食事を作って貰うのはどうでしょうか」
二人とも食事が作れないので、工場製の料理を食べているが、食材自体は手に入る。イリスなら作ってくれそうだ。
「それなら侍女として食事の用意もして貰えばいい。アリシアに任せるから」
「確かにお城では、侍女にお茶や夜食の用意をして貰っていましたが……分かりました。とにかく本人と相談してみます」
イリスをこちらの世界に連れてくる事に迷いはあるが、身の振り方が決まるまでは仕方が無いだろう。
「迷惑を掛けて済まない」
ヘスペロスが頭を下げると、アリシアは優しく抱擁してくれた。裸の肌の柔らかな感触と温もりが、服越しに伝わってくる。
「大丈夫です。それにお買い物を望んだのは私です。この世界では手に入らない物がありますから」
大事になってしまったが、きっかけは服や買い物用の資金を手に入れる事だった。イリスと話した感じでは、それは上手く行きそうだ。次の休みにイリスの実家に訪れてみれば、結果が分かるだろう。