ロマナの仕立屋で二人の服を誂えて貰い、その服を着てイリスを引き取りに行った。
ロマナはアーデラング王国の首都で、イリスが売られていた屋敷はこの街にある。商店街にも活気があり、イリスの実家のあるレスリアはこの街の西隣に位置している。
「どうか娘をよろしくお願いいたします」
店に入り、ヘスペロス達が自己紹介すると、イリスの両親は商売人らしく深々と頭を下げたが、特に家の中に招かれもせず、あっさりとしたものだった。
それでもアリシアの侍女をして貰う事や、里帰りもさせると説明すると、安心した様子を見せた。正直に言うと、この儀礼的な挨拶が必要だったかは分からない。ヘスペロスは就職先の社長みたいなもので、結婚相手ではない。
イリスがこちらの世界にやってきて、二人だけだった生活にも変化が訪れた。
まず朝食を三人でとるようになった。
食堂のテーブルにはヘスペロスとアリシアが並んで座り、向かいの席にイリスが座る。
「とても美味しいですよ。イリス」
食事が始まると、いつものようにアリシアはイリスに声をかけた。食事はイリスが作ってくれるようになり、没個性的な工場製で我慢する必要がなくなった。イリスは料理が得意らしく、工場製と同じ素材とは思えないほど美味しかった。
「平民の家庭料理ですので、お口に合わないかと存じますが、そう言っていただけて嬉しいです」
「口に合わないなどという事はありません。そもそも私が作れないのがいけないのですから」
「アリシア様がお料理する必要など……それは私にお任せください」
あまりアリシアには打ち解けていない感じだが、平民と元王族では仕方がないのかもしれない。身分差のある文化の中で育ったので、別の世界に来たからといって、すぐに変われるものでもないのだろう。
「それにしても、肌の具合がとても良くなりましたね」
出会った頃のイリスはアレルギー疾患で肌荒れが酷かったが、抗アレルギー剤の服用で今はすっかり綺麗になっている。今のイリスは誰もが振り返るような美しい娘だ。
「ありがとうございます。とても感謝しています」
イリスはその場で深く頭を下げた。艶やかな茶色の髪が肩からこぼれ落ちる。
「いいんだよ。さあ食事を続けて」
イリスは頭を上げ、琥珀色の瞳でヘスペロスを見た。それから柔らかく微笑むと、コーヒーポットを手に取った。
「ヘスペロス様、お代わりはいかがですか?」
「ありがとう」
ヘスペロスが頷くと、イリスは慣れた手つきでカップに黒い液体を注いだ。普通の真空ポットだが、いつまでも冷めないので、イリスも最初は驚いていた。
「レスリアでコーヒーは手に入る?」
「はい、お茶と比べると少し高価ですが、人気はありますね。実家の店でも売っています」
「これより美味しい?」
ヘスペロスがコーヒーを飲みながら顔をしかめると、イリスは少し困ったように笑った。
「そうかもしれません」
「それなら、今度実家に戻った時に買っておいてくれないか?」
「かしこまりました」
イリスが軽く頭を下げる。こちらのコーヒーは工場で合成したものなので、やはり美味しくはない。イリスもそう思っていたのだろう。
「アリシア様もどうぞ」
「ありがとう。イリス」
アリシアのカップにコーヒーを注ぐイリスの様子には緊張が見て取れる。アリシアもそれに気付いたようで、ヘスペロスと目を合わせた。
「ご主人様、今日はイリスに侍女の仕事を教えようと思うのですが、よろしいでしょうか?」
「ああ、勿論かまわない」
「ありがとうございます。お仕事のお手伝いができなくて申し訳ありませんが……」
「大丈夫だ」
アリシアはイリスと親しくなる方法を、何か思いついたのかもしれない。
ヘスペロスは二人の美女を眺めながら、入れて貰ったコーヒーをゆっくりと飲み干した。最後にアリシアの習慣に従い、手を前で組んで目を閉じた。
「では先に行く」
ヘスペロスは立ち上げると、食堂の扉を開けた。
「いってらっしゃいませ。ご主人様」
「いってらっしゃいませ」
二人の声を背後で聞きながら、ヘスペロスは仕事場へ向かった。
「さあ、私達も行きましょう」
「は、はい……」
アリシアに促され、イリスは慌てて立ち上がった。どこに行くのか分からなかったが、従順にアリシアの後について行く。アリシアとイリスは一度屋敷の外に出て、再び似たような屋敷に入った。煉瓦でも石でもない、見たことにない材料でできた不思議な建物。建物の中は清潔で明るかった。壁は貴族の家のような余計な装飾は一切ないが、光沢があり、木のような温もりのある材質でできている。継ぎ目もなく、大きさも均一なせいか、熟練の職人が手がけたような高級感があった。
「し、失礼します」
アリシアが立ち止まり、優しく微笑んイリスを見ている。それで、イリスは先日教わった侍女の仕事を思い出した。ここは後宮なのでオダリスクは裸で過ごす。そして後宮の主であるオダリスクの服を脱がすのは、イリスの役割なのだ。
少し緊張しながら、やはり不思議な素材の服のボタンを外していく。まるで身体に合わせたように立体的に仕立てられているが、レスリアの職人にこんな服を作れるとは思えない。この服で向こうの世界に行けば騒ぎになるだろう。
(ヘスペロス様は服が無くて困っていたが、これほど技術に差があると、仕立て直すのも難しそう)
「イリス、ありがとう」
裸身になったアリシアは信じられないほど美しかった。背中まで伸びる月光色の髪。輝くような白い肌。神の造形のような均整のとれた肢体。
(この方はマーレルの碧玉と称えられたアリシア姫に似ている)
イリスは一度だけ、マーレルの王女であるアリシア姫を見たことがあった。現アーデラング王の戴冠式の日だ。遠くから拝見しただけだが、あの美しさは忘れられるものではない。
その後、マーレル王国はキュランド帝国に滅ぼされ、アリシア姫はシルフレシア王のオダリスクになったと聞いたが、妙な噂も耳にした。なんでもアリシア姫が神隠しに会って忽然と姿を消したというのだ。
(ヘスペロス様ならそれが出来る。それにアリシア様の名前も一緒だし、オダリスクなのも同じ)
「まだ朝ですが、お風呂に入ってらっしゃい。これからは毎日入浴した方がいいわ。ご主人様は清潔な方だから」
この建物に個人風呂があることは知っていたが、当然後宮の主専用の浴室だ。自分が入るとは思っていなかった。
「私は水浴びで大丈夫です。王国の臣民だった時もそうでしたし、ましてや保護民の身でそのような事は恐れ多いです。どうかご容赦ください」
「何となくそう言うと思ったけど……でも水浴びをする場所はないのよ。それじゃあ侍女の仕事として、私の身体を洗ってくれる?」
「はい、それは勿論させて頂きます」
イリスはアリシアに連れられて、鏡と、その下に大きな陶器の台がある部屋に入った。鏡は見たこともないほど美しく磨かれ、台の中央は鉢のように窪んでおり、その上には水道管のようなものが見えた。街に住む平民達は給水施設に水を汲みに行くが、貴族の屋敷には直接水道が引かれている。それがここにもあるのだろう。
服を脱ぐように促され、イリスも裸になった。鏡に2人の裸身が映っている。まるで窓のようにも見えるが、確かに鏡のようだ。これほど鮮明な自分の身体を見るのは初めてだ。少し子供っぽいが、思ったより悪くない気がした。勿論、美しいアリシアとは比較にならないが……
「ここは脱衣所兼洗面所です。こちらが浴室」
アリシアは入って来た扉とは別の扉を開けた。イリスが物怖じしているのに気付いたのか、手が差し伸べられ、子供のように手を繋いで浴室へと導かれた。
イリスもたまに公衆浴場に行くが、個人風呂を見るのは初めてだ。思ったよりも大きく、2人で入るには十分な広さがある。
「この世界の石鹸は液体なの。しかも髪用のと身体用に分かれています。こうやって……」
アリシアは壁と柔らかな管で繋がっている、小さな穴が沢山開いた取っ手を手に取った。アリシアの方に向けるとお湯が噴き出し、髪を濡らしていく。シャワーは公衆浴場にもあったが、壁に固定されている。このシャワーは自由に動かせるので便利だ。
アリシアはお湯を止め、今度は白い粘性のある液体を手に取ると髪を泡立てて見せた。
「分かました。あとは私が……」
アリシアは頷くと、浴室用らしい背もたれの無い低い椅子に座った。イリスは膝をつくと背後に立ち、髪を洗い始めた。イリスが知る石鹸よりも泡立ちがよく、甘い香りがした。アリシアの髪は絹のように滑らかで、洗うのが心地良かった。
「流します」
イリスは再びシャワーを手に取ると髪の泡を綺麗に洗い流した。柔らかな管の先にお湯の入った容器ががあるのかもしれないが、一向にお湯が尽きる様子はなかった。
「次は身体を……」
アリシアは柔らかな布に、髪用とは別の液体をかけて泡立てると、自分の腕に滑らせた。微かに香水のような香りが漂う。
「分かりました。失礼します」
イリスは布を受け取ると、アリシアの背後から腕を洗い始めた。続いて背中から、腰、それから脚と順番に洗っていく。どこも汚れているようには見えないが、毎日入浴しているのなら、当然かもしれない。
「今度はイリスの番です。今度は私が洗ってあげる」
アリシアはイリスを椅子に座らせると、背後に膝立ちになった。イリスは固辞しようとしたが、結局押し切られてしまい、アリシアに委ねる事にした。
「申し訳ありません。きっと汚れています」
水浴びをしたのは数日前だ。汚れた髪に触れられるのは申し訳ない上に、恥ずかしかった。
「それではしっかり洗いましょう」
アリシアは慣れた手つきでイリスの髪を洗い始めた。地肌をマッサージするように丹念に洗ってくれる。髪用の石鹸の香りに包まれ、それは夢のように心地良かった。
「さあ、あとは流して……」
お湯で洗い流して貰うと、本当にさっぱりして気分が良かった。だがマーレルの碧玉と謳われたアリシア姫に髪を洗わせるなんて、本来ならあり得ない話だ。これ以上手を煩わせる訳にはいかない。
「身体は自分で洗いますので、どうかお湯で温まっていてくださいませ」
「遠慮しなくても……でも、分かりました」
イリスの気持ちが伝わったのか、アリシアはイリスの頭を優しく撫でると、浴槽に身を横たえた。
イリスは身体を洗い終えると浴槽の傍に立った。そのまま待機して、アリシアが風呂から上がるのを待つつもりだった。
「あなたも入って。マッサージをして下さらない?」
「あの……マッサージならお上がりになってから致しますので」
王族と同じお湯に入るのは、普通なら許されることではない。ここは別の世界とは言え、やはり躊躇してしまう。
「濡れた身体で立っていては冷えてしまいます。さあ……」
「わ、分かりました。失礼します」
イリスの主はアリシアだ。やはり命令には逆らえない。お湯に入り、アリシアと向かい合わせになると、足の甲を手のひらで包むようにして、足裏を刺激してみた。
「ありがとう、イリス。気持ちいいですよ」
本当のところ、マッサージが目的ではないのだろう。イリスが拒むことが分かっていて、お湯に浸からせようとしただけだ。実際、お湯に入るのはやはり心地良い。それにアリシアも、気持ち良さそうにマッサージを受けてくれている。
(まあ、これでいいか……)
身体が清められ、いい香りがしている。さらにお湯に浸かり身体がぽかぽかしてくると、夢の中にいるようで、考えるのが億劫になってしまった。
「イリス、あなたの話を聞かせてください」
「はい、アリシア様。そうですね……私は……」
浴室に響くアリシアの声は優しく、そして美しかった。何を話しても許して貰えるような気がして、イリスは思いついた事を語り始めた。