朝の微睡の中、腕の中にアリシアの温もりを感じていた。
絹のように滑らかな肌と、優しく甘い匂いが心地良い。
アリシアはもう目覚めているのか、時折、唇や首筋にキスしているようだ。だがヘスペロスは、まだ半ば夢の中にいて、それが現実なのかどうかはっきりしない。
「ご主人様……」
アリシアが耳元で囁き、吐息が耳をくすぐる。それから耳たぶや耳の溝に湿ったような感触を感じた。唇で咥えたり、舌で舐めたりしているようだ。しばらくそうしていたが、やがて耳穴に柔らかなもの差し入れられ、リズミカルに動き始めた。
「アリシア……」
ヘスペロスは寝言のように呟いたが、それも夢なのかどうか分からない。耳を舐められるのは快感という訳ではないが、ただ、舐める音が眠気を誘うようだった。湿り気を伴う耳を舐める音がしばらく続き、やがて息継ぎのためか、吐息混じりの喉を鳴らすような声が、耳の奥に艶めかしく響く。それは音楽のように交互に奏でられ、不思議と気分を鎮めていく。同時に感じるアリシアの息遣いが、アリシアをより近くに感じられて心地よかった。
やがてヘスペロスの力は抜けていき、微睡から再び夢の中に戻っていく。
「おはようございます。ヘスペロス様、アリシア様、朝食の用意ができました」
アリシアとは違う若い女の声に、ヘスペロスの意識は夢から現実へと呼び戻された。目を開けると、イリスがベッドの傍に立っている。アリシアは耳舐めを止めると、イリスの方を向いた。
「おはよう。イリス……」
アリシアはタオルでヘスペロスの耳を拭いた後、先にベッドから降りた。イリスがすかさずアリシアに服を着せる。
「ご主人様、おはようございます。起きてくださいませ」
アリシアの言葉に、ヘスペロスは寝ぼけながら上半身を起こした。二人は左右の腕を抱えるようにして、ベッドから降りるのを手伝ってくれる。そのまま二人に服を着せられ、ようやく目が覚めてきた。
「おはよう。アリシア、イリス……」
イリスが2人に向かって頭を下げる。その顔は少し上気しており、恥ずかしそうに目を伏せている。男女で裸で抱き合っている上に、耳舐めまでしているところを見れば、その反応は当然かもしれない。イリスにも早く結婚相手を見つけてやりたいが、向こうの世界には知り合いもいないので、中々難しい。
ヘスペロスはAAIにコマンドを発行して、仕事場の食堂に「扉」を開いた。朝は仕事場の建物に移動して3人で朝食をとることにしている。
「さあ、行こう」
ヘスペロスはいつものようにアリシアと手を繋いだ。続いてイリスがアリシアにしがみつく。「扉」に危険はほとんどないが、稀に不具合が発生して予期せぬ場所に繋がる事もある。アリシアとイリスは、AAIのインターフェースの無い普通の人間なので、「扉」は開けない。妙な場所に送られたら帰る手段がないのだ。それで常に一緒に「扉」を通り抜ける事にしていた。
3人は同時に「扉」を通って食堂に移動した。食堂のテーブルにはパンとスープ、スクランブルエッグや豆と野菜を煮た料理、それにマッシュポテトも用意されていた。
「美味しそうだ。イリス、いつもありがとう」
ヘスペロスが褒めるとイリスは恥ずかしそうに頭を下げた。顔が赤くしているように見えたが、それはヘスペロス達の生々しい姿を見たせいかもしれない。
3人はいつものように、ゆっくりと食事を楽しんだ。イリスの料理は美味しく、工場製の食事とは比較にならなかった。そして、アリシアとイリスは以前より打ち解けた感じになり、会話も多くなった。イリスがいつまでいてくれるかは分からないが、身の振り方が決まるまでは、ここで暮らすことになるだろう。楽しく過ごせればそれに越した事はない。
食事の後、イリスがコーヒーを淹れてくれた。いつもと違い、カップから香ばしい香りが漂う。イリスが控えめにこちらを見ている。感想を期待しているようだ。ヘスペロスは期待を込めて、その熱いコーヒーを一口飲んだ。口内に酸味と苦みを感じ、同時に芳醇な香りが鼻孔を満たす。やはり本物は、工場で合成された物とずいぶん違う。
「コーヒーを手に入れてくれたのか。何から何まで済まないね」
イリスの実家は乾物を扱う商店なので、本物のコーヒーを売っている。ヘスペロスが本物のコーヒーを望んだので、実家から買って来てくれたのだろう。
「いいえ、このくらい何でもありません。お口に合いますでしょうか?」
「ああ、美味しいよ。アリシアはどうかな?」
「はい、とても美味しいです。以前、後宮ではあまり飲ませて貰えなかったので、ちょっと嬉しいです」
「そうなのか?」
「はい、国王陛下はコーヒーの匂いが苦手だったのかもしれません」
「ああ、なるほど……」
好みにもよるが、王としての多忙な日常を忘れて、後宮で甘い一夜を過ごそうと言うときに、寵姫がほろ苦いコーヒーの匂いを漂わせていては興ざめかもしれない。
「さて、それじゃあそろそろ仕事に行こうか。今日はアリシアと一緒に遺跡に行く予定だ」
「そうでしたか。お気を付けて行ってらっしゃいませ」
ヘスペロスとアリシアが立ち上がると、イリスも合わせて立ち上がり、手を前に組んで頭を下げた。
「イリス、後はよろしくお願いします」
アリシアが声を掛けると、イリスは再び頭を下げた。
「かしこまりました。お任せください」
二人で一旦仕事場に行き、必要な道具をまとめて鞄に入れると、再び「扉」を開いた。
「扉」の向こうは、以前に訪れた遺跡と同じ様に、荒野を望む高台に繋がっていた。元は高台にあった訳ではないが、周りの大地が戦時中に使われた兵器によって穿たれて、結果として高台のようになっているのだろう。
「ご主人様……」
アリシアがぎゅっとしがみついてきた。豊かな自然と共に育ったアリシアは荒涼とした風景に慣れていないのだろう。眼下に広がる大地に生き物の気配はない。月面を見ているかのように、見渡す限りクレータが続いている。人類が激減するまで続いた最後の大戦の傷跡だ。
「ここは風が強い。遺跡の中に入ろう」
この遺跡は、前回調査した建物とは別の研究施設だが、飾り気の無い低層の建物で、雰囲気は似ている。前の遺跡と同じ様に、保存状態は良さそうだ。外壁に目立った損傷は見られない。
ヘスペロスは「扉」を建物の中に開いた。アリシアと手を繋いで「扉」を通り抜けると、ホールのような広いスペースが見えた。恐らく1階のエントランスホールだろう。中央にいくつかの空の棚が設置されている。かつては研究成果を展示していたのかもしれない。
「意外と明るいですね。灯りもついています」
アリシアが高い天井を見上げて呟いた。ヘスペロスも、星霜を経て、照明を維持し続ける遺跡は初めてみた。何か特別な動力源を備えているのかもしれない。
「こっちに階段があります!」
棚の隣に黒いゴムのような素材でできた階段が設置されていた。驚いた事に、近づくと音を立てて動き出した。ヘスペロス達の住む「都市」で見る事はないが、かつて人間達の間では、広く普及していたというエスカレーターだろう。階段が動いて隣接階に運んでくれる装置だ。
「乗ってみるか?」
「はい。動く階段なんて不思議です」
2人で飛び乗るようにして、エスカレーターに乗った。それはゆっくりと上の階へと登っていく。
「なんか凄いです。階段が床から湧き出ています。魔法みたい……」
アリシアは妙に楽しそうだ。アリシアの世界は工業が発達していないので、何でも魔法のように見えるのかもしれない。
「終点が近いようだ。気を付けて」
「はい、止まってくれる訳ではないんですね。飛び降りるのでしょうか」
「自然に歩けば良さそうだ」
ヘスペロスも初めてなので少し躓きそうになったが、なんとか降りることができた。
だが2階で目にした光景は、想像とはかなり異なっていた。