遺跡から戻った後、ヘスペロスは持ち帰った研究資料に目を通していた。
それは今までに入手した資料の中で、最も複雑で高度な内容であった。研究内容は多岐にわたるが、主要なテーマは大規模なニューラルネットワークの処理速度を高めるための研究。星霜を経て今も動作している遺跡のコンピュータは、その成果だろう。
これらの研究は多くの分野で上手くいっていたようだ。高速な演算能力を持つ専用素子の開発。効率的なニューラルネットワークを可能にする新しいアルゴリズム。効率的な学習方法。
ただ、汎用的な人工知能の実現には苦戦していたようだった。いくら高度なハードとソフトがあっても、肝心のデータがなければ何も実現できない。迷走にも似たいくつかの試みの後、画期的な進歩をもたらしたのが、モニターに映っていたバロウ博士だった。
「ご主人様、夜も更けてまいりました。そろそろお休みになられた方が……」
アリシアがためらいがちに声をかけてきた。基本的にヘスペロスの意思を尊重することが多いが、今日は休んでいないので流石に心配になったのだろう。
「ああ、済まない。付き合わせてしまって……」
当然、一緒にいるアリシアも休んでいない。イリスに用意してもらった夕食を食べながら調査を手伝ってくれたくらいだ。
「続きは明日にしよう……」
ヘスペロスが疲れて体調を崩しても自業自得だが、アリシアまで巻き込む訳にはいかない。
「後片付けをするので、先に戻っていてくれ」
「かしこまりました」
ヘスペロスは別宅であるアリシアの家に「扉」を開いた。アリシアの解釈では、そこは後宮なので、仕事の同僚からオダリスクへと戻り、主人であるヘスペロスを迎えてくれるはずだ。
「お先に失礼します」
念のため、アリシアを「扉」の向こうに送り、一旦戻ってコンピュータの電源を落とした。アリシアの準備のために少し待機した後、再び「扉」を通り抜けた。
「いらっしゃいませ、ご主人様……」
「扉」の向こうでは、いつものようにアリシアが出迎えてくれた。さっきまでとは異なり、裸で何も身に着けていない。それは王の後宮のオダリスクの習慣で、向こうの世界で密会していた時も、いつも裸だった。慣れているのかあまり恥ずかしそうではなく、絵画から抜け出した女神のように美しい裸身を、ヘスペロスのために見せてくれている。
「浴場にまいりましょう。イリスに頼んでおいたので、準備ができているはずです」
ヘスペロスが頷くと、アリシアが腕を絡めてきた。そのまま2人で寄り添いながら浴室に向かう。
「お疲れ様でした」
浴室の前ではイリスが待機しており、ヘスペロス達を見かけると、頭を下げて出迎えてくれた。そのまま一緒に脱衣所に入り、ヘスペロスが服を脱ぐのを手伝ってくれる。イリスはアリシアの侍女だが、ヘスペロスの世話もしてくれる。勿論オダリスクではないので、服は着ているし、浴室の中まで入ってくることはない。
「では失礼します」
「お疲れ様。今日はもう休んでね」
「ありがとうございます。アリシア様」
イリスは再びお辞儀をすると、逃げるように脱衣所を出て行ってしまった。顔が上気しているように見えたが、きっと恥ずかしかったのだろう。異性にはあまり慣れていないらしい。
「微笑ましいね。さて、アリシア、こっちにおいで……」
いつもはアリシアが体を洗ってくれるのだが、今日は遅くまで仕事に付き合わせたので、ヘスペロスが奉仕すべきだろう。少し強引に手を取って浴室に導くと、座るように促した。アリシアは困ったような顔でヘスペロスを見上げている。
「あ、あの、それはいけません……」
「今日はイリスに世話してもらう時間が無かっただろう?その代わりだ」
アリシアとイリスは、夜になってヘスペロスが訪れる前に、スキンシップも兼ねて2人で風呂に入るらしい。
「それはそうなのですが……その……申し訳ありません」
ヘスペロスが強引に洗い始めたので、アリシアはあきらめたように身体の力を抜いた。腕から掌へ、滑らかな肌に手のひらで泡立てた石鹸を滑らせる。アリシアがいつもそうしてくれるように、手でマッサージするように丁寧に洗った。
「気持ちいいです。ご主人様……」
アリシアは申し訳なさそうに呟いたが、寛いでいるのか穏やかな表情を浮かべている。
「お仕事の……資料の調査を邪魔してすみません。あまり無理をなさってはお身体に良くないかと……」
「大丈夫だ。ちょうど切りがよかった。バロウ博士が何の研究していたかも分かった」
「ああ、あの彫像が置かれていた女性の研究者ですね」
「そう。彼女はある意味では、まだ生きている。遺跡のコンピュータの中で……」
アリシアはその言葉を聞くと、驚いたように顔をこちらに向けた。キスできそうなほどの距離でヘスペロスを見つめている。吐息が感じられるようで、少し艶めかしい。
「鍛冶職人が作る道具に、魂が宿った物語を聞いたことがあります。確か、仕事に打ち込みすぎて体から魂が抜けてしまった話で……」
「まあ、ちょっと似ているかもしれないが、博士の場合、自分の意思で体を捨てたようだ。魂、つまりデータとなって遺跡のコンピュータの中に入った」
「自分で……確かに彫像の女性は意思が強そうな感じでした。それで彼女の身体はどうなったのでしょうか」
「データを取ると身体に悪影響があるらしく、そのまま亡くなったようだ。それ以外に身体や脳のデータを正確に取得する方法は無かったらしい」
「魂の抜けた鍛冶職人の体も死んでしまいましたので、結末は同じですね」
「そうだな……」
今の技術なら、神経細胞から安全に記憶を取り出すことはできるだろうが、そのデータで対象の人格が復元できるかどうかは分からない。バロウ博士の実験では成功したのだろうか。
「コンピュータの中の彼女とお話はできるのでしょうか?」
「可能かもしれないが、そうすべきかどうか……」
映像で見た彼女は不幸そうには見えなかった。仮想的な世界で暮らしているのなら、無意味に干渉すべきではないかもしれない。大きな戦争があって、人類が衰退したことを知らせるべきかどうかも分からない。
「少し考えてみよう。それより、今度は前を洗わせてくれ」
そう言うと、アリシアは顔を少し上気させてうつむいてしまった。後宮では裸で過ごしていて、毎夜肌を合わせてもいるが、やはり若い女性らしく恥じらう時もある。
「は、はい……でもちょっと恥ずかしい気がします」
「まあ、そう言わずに……」
ヘスペロスは背中から抱きつくようにして、豊かな胸に手を滑らせた。手のひらに感じる柔らかな感触を楽しみながら、艶やかな肌を石鹸の泡で覆っていく。
「ふふっ……でも気持ちいいです。あんっ……」
アリシアは力を抜いてヘスペロスに身をゆだねてきた。密着しながら洗っていると、少し興奮してしまう。だが欲望のままに振舞って疲れさせるのも良くないだろう。今日は忙しかったのだ。
「くすぐったいだろうけど、少し我慢して。すぐに終わらせるから」
「あっ……なんと言うか、我慢している訳では……」
アリシアは何か言いたそうだったが、ヘスペロスは淡々と身体を洗った。やはりいつものようにお楽しみはベッドがいい。その方がきっとぐっすり眠れるだろう。